コンテンツとは何ぞや?

ネットが普及した今日でこそ、コンテンツという言い方もよくされるようになったが、日本語にするとどうなるのだろうか? 英語のコンテントは単に『中身』程度の意味だから、何らかの形容詞がついて、adult content とか free content などとは使うが、何も形容しないで『コンテンツ』を作るとか、『コンテンツ』が欲しいとかは言わない。また中身は有形無形何であってもコンテントなので、それ自体が具体的に指すものはないだろうと思う。
このコンテントの曖昧さこそが、『デジタル・コンテンツ』という表現にぴったりだったということだろう。アナログの時代は異なるメディアを組み合わせて使うことは難しかったが、データがデジタルになってしまうと、すべてが0と1の並びになり、いわゆるどんなメディアでも一緒に扱えるようになった。そこでマルチメディアなデータのことを『デジタル・コンテンツ』と苦し紛れに呼ぶようになったように記憶している。

それはともかく、曖昧さのあるコンテンツは便利な言葉である反面、一般の人にコンテンツといっても通じにくいと思う。コンテンツ産業とか、コンテンツを作ります、と言ってもピンと来ないだろう。我々もデジタルサイネージのコンテンツ云々ということは内輪ではよく言ってきたが、営業局面ではコンテンツという言葉をもっと具体的に内容を示すものに置き換えて表現するべきだ。
たとえば『販促用ショート動画コンテンツ』とか『アニメ教材コンテンツ』とか『館内案内コンテンツ』とか『インテリアの環境映像コンテンツ』などなどとなるだろう。ところが同じデジタルサイネージでも、銀行や病院の情報表示はコンテンツとは呼ぶことはない。またWeb(HTML)を表示している場合もコンテンツとは言わない。とすると、わざわざコンテンツと呼ぶものは、何等か人手でひとつひとつ作りこんでいるものを指すようだ。

 

タッチパネルがついていてインタラクティブな仕組みがあるとか、今後はAIを使って人と応答するヴァーチャルマネキンなども増えるのだろうが、これらも基本のグラフィックデザインは人手で制作しても、自動応答のシステムとして稼働する場合はコンテンツとは呼ばないだろうと思う。
要するにデジタルサイネージにおける『コンテンツ』とは、グラフィックデザインに非常に近い言葉になっている。つまりデザインのディレクションをする人と制作をする人の協同でなされるものとなる。それなのに『デザイン』を強調しないで『コンテンツ』と呼ぶのは、サイネージでは多くの場合に他のメディアで考えられたデザインの派生として制作されることが多いからだろう。その理由はメディア利用の経費配分において、一番あとまわしになっているのがデジタルサイネージだという現状からきている。

このことは、デジタルサイネージがメディアとしてまだ独り立ちしていないことを意味している。まだ当分の間はこのような状態が続くのは致し方ないが、デザインの派生だけでは同時にデジタルサイネージの利用範囲を狭めてしまうことになる。デジタルサイネージの可能性拡大という視点では、まだ他のメディアが使いにくいところに用途を見つけていく必要がある。その兆候というのもたくさんある。たとえば『こんなところにサイネージがあったら...』で書いた出版物のようなモデルである。これは幼児からビジネス用から高齢者向けまで、すでにいろんな取り組みがされている。
この場合の難しさは、すでに必要なコンテンツを保有しているところに対しては制作サービスは可能であるけれども、コンテンツホルダーが別にいる場合は許諾を取らなければならない点でひとつの壁がある。従来のデジタルサイネージはデザインの派生という点で広告業界と協同する面があったが、これからはコンテンツホルダーと協同して新たなビジネスを開拓していくという方向もあるだろう。

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